最高裁判所第二小法廷 昭和62年(オ)1566号 判決 1990年9月28日
上告人
有限会社阪神観光
右代表者代表取締役
下坂裕一
右訴訟代理人弁護士
佐藤禎
前原仁幸
被上告人
国
右代表者法務大臣
梶山静六
右指定代理人
中川清秀
右当事者間の東京高等裁判所昭和六〇年(ネ)第三一七三号損害賠償請求事件について、同裁判所が昭和六二年八月三一日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人佐藤禎、同前原仁幸の上告理由について
所論は、違憲の主張を含め、独自の見解に基づいて原判決の不当をいうものにすぎず、採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 中島敏次郎 裁判官 藤島昭 裁判官 香川保一)
上告理由
第一 原判決は要するに、憲法第二八条、団体行動権の宣定条項に違背している公権力行使で発生した損害については、国の要償義務はないというので、その取消を求める。
一(1) 憲法第二八条は「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する、と宣定し、労働組合法所定の所謂労働組合(同法第五条第一・二項)が、勤労者の団結する権利を具体化した制度であると理解できることに先ず異論はない。
(2) ところで労働組合がこのように勤労者の団結する権利を具体化した制度である以上、自明且つ当然として自己の組合員の所謂資格・範囲等を自己の組合規約上に所定し、自ら自己の組合員であるべき者が誰であるか確定でき、労働委員会・裁判所その他第三者は労働組合自身がこのようにして確定した組合員として定めた組合規約条項に拘束され、更にそれに替わって当該労働組合の組合員たるべき者が誰であるかについて、これを調査・審査する余地はないというべきである。即ち、労働組合は労働組合法第三条所定の者が結成・加入している組織であるから、結成時に組合員となる者が同条労働者であることがはっきりしているわけで、これを労働委員会など第三者が後日、所謂組合員の前記第三条の適合を審理する必要と利益はないということができ、従ってこのような審理それ自体、組合員である者が同条適合者ではないから、反って必要となる審理ということができ、一種の公権力を行使して労働組合を謂はゞデッチ上げることになり、このような審理がなされたこと自体、当該団体が労働組合の結成に成功しないで、非労働者を結集して、前記第五条適合の労働組合とは違っていることを論証することになると言うべきである。このように、労働組合の構成員である組合員について、労働組合自身がこれを定めることができないで、労働委員会・裁判所その他第三者が組合員についてこれを調査・審究の上確定できるとあっては、労働組合は自己の組合員であるべき者について、自己確定権を行使できなくなり、そもそも労働者を団体化する利益や必要がなくなり、そうすると労働組合の結成という労働組合の正当な行為もなくなることになり、その構成員中に、非組合員(労働組合結成の非資格者)を含ましめられるのみならず、更にこれら非資格者の利益を代表せしめられる結果を惹き起こすことに繋り、かくては組合員の保持が困難・不能化してきて、労働組合の正姿を保持できなくなり、延いては憲法第二八条で宣定してある、勤労者の団結する権利を制度化した労働組合の保障が全く有名無実化してしまうことになる。従って、同条で勤労者の団結する権利が宣定され、労働組合が団結権を具体化した制度であると理解できる限り、労働組合は自己の組合員である組合員について、その組合規約条項中にその資格・範囲など自から確定でき、このように定めた組合員についてはわざわざ法律条項を解釈・適用してその労働者性を審理する迄もなくなり、このように労働組合が団結権の行使として、組合員を自から確定でき、労働委員会・司法裁判所その他第三者はこれに拘束されることになると運用すべきであるというべきである。従って、労働組合規約の所定自体で組合員が労働者であることが自明として理解できない限り、第三者が労働者性を認定する余地はなく、労働組合を結成しているといえないというべきである。
二(1) 以上の理解を本件についてみると、訴外大阪芸能労働組合はその組合員規約条項に、阪神地区の芸能者が組合員となって結成した団体であると定めていると認定できたのであるから、労働委員会、司法裁判所など公権力行使の機関は自明且つ当然として、以上の団体構成員条項に法的に拘束され、同訴外組合の組合員は阪神地区の芸能者である、と認定する以外になく、これを異なる認定・判断をしては、憲法第二八条が宣定した団結権の宣定条項に違背して許されないことになると指摘できるところ、原判決始め関連事件判決はいずれも、同訴外大芸労組合員は上告会社を賃金支払者とする上告人会社勤務の楽団員であると認定しているから、これは大芸労規約の組合員である阪神地区居住の芸能者とは異なる認定であるということができ、このような認定は労働組合が自己の組合員を定めることになる、団結権の宣定に違背した運用であると結論でき、従って、原判決の破棄は自明且つ当然である、と論定できる。そして、労働組合の組合員資格条項の法的拘束力は、勤労者団体行動権を宣定した憲法第二八条に源泉するというべきであるから、原判決始めその他の関連事件判決にはこのように憲法違背の瑕疵がある公権力行使である以上、憲法第九八条第一項所定の無効の公権力行使として破棄されることになる。
(2) 訴外大芸労の組合員は阪神地区芸能者であると所定し、従って、現に同訴外大芸労は本件楽団員らの参加なしに結成できているわけで、公権力行使はこの定めに法的に拘束され、その余の認定・判断が許されないから、そうすると、当該組合員条項自体で、即自、上告人会社が賃金支払者であって、そのホールに於いて楽団演奏に勤務する者、つまり、上告人会社の雇用する従業員であるということができなくなり、従って組合員らが上告人会社と雇用関係・賃金支払関係がある者というわけでなくなり、のみならず、使用者になる者が何某と特定・具体化しなくなるから、利益を代表する者の参加・経費援助などの有無についてみても、何某を使用者と目して判断してよいのか、全く不明という他なく、そもそも労働組合資格審査すら不能ということに帰着する、労働委員会審査はこのように運用しないと、労働組合が自から組合員を定めることができなくなり、これは自己の組織保持が保障されないということに他ならないから、憲法第二八条の団結権を無効化する。
(3) 原判決始め関連事件判決の論旨に従うと、労働委員会始め司法裁判所その他の第三者は、労働組合の組合員条項に関する規約の所定に拘束されることなく、公権力を行使して、全く独自な立場で、組合員をさだめることができるという論証が成立つことになるが、このような理解と運用は前述のとおり団結権の宣定保障に違背することになり、このような憲法違背の理解に立脚した運用は憲法違背の公権力行使として、憲法第九八条第一項宣定条項により無効であるということになるから、そうすると、確定事件の既判力抵触はこの限度で排斥でき、上告人は損害補償請求権が行使できるというべきである。労働組合の結成は労働組合の正当な行為があったことになるから、従って組合規約に拘束されることになって、自明且つ当然で、この組合規約の定めに拘束されないで、公権力行使の機関として独自の判断ができることになると、延いては労働組合の結成を評価しないことに繋り、不当労働行為を組成する。
三(1) 労働組合は意思活動の主体であるから、その結成に際して、組合員らが賃金生活者(労働組合法第三条適合)である事実を了知していることになる。この認識がないと、一体そもそも何者らを自己の組合員として結成したのかということになって、労働組合としての、所謂資格審査すら申立の余地はなくなる。資格審査は労働組合法第五条第一項所定のとおり労働組合が申立てるから、自明且つ当然として、その事前に労働者を結成した組織として成立していることになる。組合員らが特定事業主の雇用たる従業員として結成しないと、労働組合自身、その者らが賃金支払者もないでは賃金生活者であるとは認定できないことになり、労働組合の結成ができない。労働組合・組合員は特定事業主との間で雇用関係が成立っている者ではないから、特定事業主の雇用するとして、雇用主・賃金支払者の特定・現存をはっきりできないと、労働組合自身としては、賃金支払者との繋りがなくなる道理で、そうすると組合員として結成する者らが賃金生活者・第三条適合者であることが、労働組合自身で判知できなくなり、労働組合として結成・生誕できないのである。
(2) 日本で企業内従業員労働組合が民間事業で支配的であるのは、以上の法理の結果である。(従来、団結の自由の法理が提唱されて、特定事業主との結び付きは労働組合法第三条の運用上必要としない、とされた。しかし、同条を組織結成で活用するのは労働組合自身であって、労働組合員は特定雇用関係がないから、特定事業主との結び付きを切断されると、こゝに述べたように、労働者であるかないかゞ判知できなくなり、自己の結成・生誕が不可能となってしまうのである。団結の自由の論証は特定事業の結び付きを度外視した組織理論であって、階級闘争に導き、労働貴族発生になる。戦後四〇年の実証で、昔軍隊・今総評に、最早昔日の面影が薄れてきたのは、団結の自由の法理が組合指導者の無責任と同じになることが、民間労使に如実に理解された結果である)。
(3) 原判決及びその引用する確定判決の法理に従うと、団結権を行使した制度である労働組合自身、勤労者の団結権であるのに、自己の結成に際して、組織の組合員らが勤労者であると了知していなくてもよいという理解になるから、凡そ団結の権利を行使する者・労働組合が、組織員の法的適合性を自覚していないで、どうして団結の権利を行使していることになるのかとなって、その違憲性は明白である、そうすると、本件審査は団結権の行使がある場合というのでなくなるから、原判決を破棄すべきである。
四(1) 労働組合は団体行動の利益を主張する相手方・使用者が誰某であるのか、団結権の行使として、自ら自覚して確定することができ、労働委員会など第三者は、労働組合の使用者確定に拘束され、従って、当該労働組合にとって、所謂使用者となる者が誰某であると更に審理の利益と必要はない。労働組合自ら自己の使用者となる者を誰某であると確定できないで、これを第三者機関の判断に俟っと、労働組合がその判断に拘束されることになり、そうすると、個々の組合員にとっては自己らの使用者を確定できないのみならず、その自覚した者と相違した者が使用者であるとされることもあり得て、かくては労働組合としては自己の組合員の組織保持・団結保持ができなくなり、延いては団結権の宣定・保障に違背する。
従って、労働組合法上の使用者は労働組合自身これを自己の規約中に誰某である、と自覚して所定し、第三者はこれに拘束され、この拘束力が団結権の行使であるというべきである。これは恰も夫婦関係調整で当事者は相互に夫となり、妻となる相手方を特定することになるのと同理である。
(2) 以上の理解を本件についてみると、訴外大芸労は阪神地区居住の芸能人の団体である、というのに止まり、その組織と規約の所定自体から、誰某を目して自己の団体行動の利益を主張する相手方・使用者であるというのかこれを自覚して確定していないから、同訴外組織には所謂使用者がないということになる。そして、原判決引用の確定判決は大阪府地労委・中労委の使用者確定の手法に立って、上告人会社を同訴外組織の所謂使用者であると確定していることは明らかであるから、このような公権力行使は前記(1)で述べたように高々上告会社がそのホールで出演する楽団員らにとっては賃金支払者であるということを確定できたに止まり、だからといって労働組合の結成規約の作成に際して、使用者となる者となっていないのであるから、公権力はこの規約所定に拘束され、使用者となる者を定める余地はない。
上告人会社はこのように訴外組織にとって団体行動の利益を主張する相手方・使用者と確定されていないということができ、これを公権力を行使して、上告人会社を目して所謂使用者となる者であるというのは団結権の宣定・保障に違背している。
五 労働組合は団結権を行使している組織であるから、自明且つ当然として、その団結に際して労働者(賃金生活者)を組合員として定め、団体利益を主張する相手方が誰であるか自覚している者であるということができ、そして、第三者は労働組合の自覚の具体内容をその組合規約の定めで知ることができるから、労働委員会・裁判所など第三者は労働組合のこの自覚に拘束され、その自覚を度外視して、労働委員会・裁判所など第三者がこれを判断することは、結局労働委員会・裁判所などが自ら団結権を行使していることになって、憲法宣定の団結権の保障に違背する。本件はその一切の経過が訴外大芸労について、大芸労の自覚というべき、組合規約の定めを全く度外視した公権力行使であるから、その憲法違背は明白である。
第二(1) 労働者は事業で勤労の権利を行使して、これを事業主から労働力として評価され、対償としての賃金を支払われて生活する者であるが、自己の勤労の権利は財産利益と違って、その具体内容を確定できないといってよく、そして、本件は事前の楽団演奏請負契約があって、ホール演奏はその確定条項に従って債務履行として実施されたのであって、本件楽団演奏について労働条件の基準がはっきりでき、その遵守として実施されていたわけでないから、このように労働条件の基準遵守の関係であって始めて、勤労の権利の行使があり、事業主の利益を代表する指示・命令・指導などが生じることになる。
(2) 労働条件の基準を遵守すると、その行為(勤務・勤労)は事業主の利益を代表する者の意思が働き、事業主自身の行為(業務)として帰属するから(労働基準法第一三条参照)、事業主自身として当然に自己の業務はその具体内容を了知している筈といってよく、一体誰の勤務・就労を評価したか知る者であって、その者について、日々八時間・毎週四八時間勤労・出欠勤、遅早退、賃金、賞与査定など労務管理を実施する関係がみられることになる実態があるといってよく、本件楽団演奏についてはこれらの関係がなかったと認定しているから、演奏が事業主・上告人会社自身の業務とはならなかったという他なく、飽く迄も個々の楽団員自身の行為として演奏しているに過ぎないということになる。
(3) (イ) そして、団体行動などは自己の勤務の行使が、他人に評価される関係にその成立根拠があるから、このように演奏が上告人会社である他人に評価されて上告人自身の業務とならない以上、他人に評価されていることにならず、自己自身の労働である以外になく、そうすると、自から自己の労働の評価者ということができ、団体権行使の理由がなくなることになる。
(ロ) 原判決が楽団員らが勤労者であって、団体行動権の行使ができる者であるという確定判決を理由にして、上告人会社の請求を排斥したことは、憲法第二七条第一、二項、第二八条宣定の勤労者の制度に根本的に違背しているから当然取消すべきである。
第三(1) 国民は現に自己の行使する自由・権利の関係で、無責任・義務違背を問われることになっても、憲法上に義務条項・責任条項が特にない限り、現にやっていないことで無責任・義務違背などの非難・制裁を蒙ることはない、これは憲法上の大原則である。憲法には国民が現にやっていないことで、突如無責任・義務違背などの非難・制裁の挙に出るような、謂はゞ国民騙し打ちができると宣定した条項はない。
民間事業の事業者は労働力評価の自由を行使する者であるから、労働力評価の自由を行使する関係で、その評価保持の努力の不足・欠陥を咎められることはあっても、団体行動を評価する者ではないから、その関係で無責任・義務違背の非難・制裁を蒙る理由はない。
(2) 以上の理解を本件に即してみると、上告人会社は労働力評価の自由を行使した者であるから、事業主は労働組合との間では雇用関係がないから、雇用関係に原因した主張・措置が許されないことは言う迄もなく、加えて労働組合は憲法宣定の権限の行使であるから、第三者としてこれを否定した評価ができないことも当然であって、事業者が労働組合の内部に干渉したり、理由なく団体交渉を拒否したり、更には雇用関係上の不利益取扱いが、所謂不当労働行為として許容されなくなることにもなる。更に、労働協約で所定した事項を履行しないことも具体的事情では、労働組合を否定した取扱いとして許容されないということになる。
しかし、以上の枠・範囲を越えて事業者は無責任・義務違反を非難・制裁されることはない。従って、財産取引き上の不利益を課せられる理由はなく、請負契約解除予告の撤回団体交渉実施、更に謝罪文など、命じられることはない。
このような行政・司法公権力行使は、憲法の大原則に違背する。
第四 原判決は既に述べたように、違憲内容の確定判決の既判力効を理由にして、上告人請求を排斥する基本的理由にあげている。
(1) ところで民事訴訟法第四二〇条第一項各号当該事由は、違憲無効となる場合に直結するわけでなく、従って、再審裁判は合憲判決であっても、同条各号事由がある時、再審判決で既判力効を覆せる制度であり、再審事由に該当しないからといって、裁判公権力の行使が合憲内容とはならなくて違憲ということがあり、違憲裁判については憲法第九八条第一項が働いて、その公権力行使としての効力がないことになるから、その本体的内容である裁判既判力効がないということになる。従って、違憲裁判は再審取消しの必要もなく、既判力効を及ばせる余地もないから、既判力効のみを理由に挙げては上告人請求を排斥できないというべきである。
(2) そして、公権力はその一切が憲法条項に源泉して行使されていること多論を要す迄もないから、本件の中労委救済命令及びそれを正当化した最高裁確定判決共に、憲法条項に適合している筈ということになり、従って、上告人会社の本件請求原因主張・上告理由等を排斥する憲法適合を論証できること、自明且つ当然として一目瞭然というべきであるから、上告人会社の賠償請求に対して、中労委救済命令及び支持した最高裁確定判決共に憲法の違背・法令の違背がないと判示するに止まらず、これら行政・司法に跨る公権力行使が、上告人会社の主張を排斥できて且つ憲法に適合した内容である、と論証しなくては最早公権力の行使として不足し、一種の悪代官的先制にしか過ぎなくなる。
特定事業が現になしてはいないことを理由にして、その者に不利益を与えた本件の一連の公権力行使が、上告人会社の論証を排斥していかなる意味において憲法に適合することになるのか、その論証は不可能である。
そして、中労委救済命令・最高裁判決共にその論旨の核心が東大学説に過ぎないといってよく、その内容正当性について、神の認証があるわけでない。
そうすると、上告人会社の経理上・精神上の損失が、本件救済命令を原因に発生している事実は、これを明らかに争っていないから、審理経過上否定できないというべきで、上告人会社の請求を認容すべきである。
以上